果たして人生に意味はあるのか? あるとして、どのような意味があるのだろうか?
『哲学の世界』第6章の冒頭では、人生の意味に関する疑問を以下の3つに分類した。
(1)私たちはなぜ存在しているのか
(2)人間の生に価値はあるのか
(3)私にとって有意義な人生とはなにか
この3点を踏まえながら、具体的な事例を紹介する。
(※本記事は『哲学の世界』から抜粋・編集したものです。)
個々の生の価値
個々人の人生の価値に焦点をあてると、現在だけでも世界には80億人近くの人間がいて、過去に存在した、そしてこれから存在するであろう人類を含めると途方もない数になる(一説には過去に存在した人間は約1080億人になるという)。
そのなかで価値をもつとはどういうことか、はまた別に考えなければならない(繰り返すが、それゆえ、個々人の価値に焦点をあてたときも、価値がないとしてもそれは宇宙の規模のせいではなく、同じような人間がほかにも多くいるからである)。たとえば、なんらかの突出した肯定的な能力(頭がいいとか、スポーツができるとか)をもっているならば、宝石が美しくかつ希少であるがゆえに最終的価値をもつように、その人物は最終的価値をもつだろう(たとえば、近代において優秀な学者にパトロンがついたのと同じように)。
では、そのような突出した肯定的能力がない者には価値がないのか。これに対して、「いや、どの人も1人としてまったく同じ人はいないのだから、そういう意味で希少性がある」と主張することは不可能ではない。しかし実際にこのような主張によって「なるほど、すべての個々人には価値がある」と納得できるだろうか?
たとえば、路傍の石について、それらはどれもなんらかの違いがあるだろうが、それゆえこれら路傍の石1つひとつそれ自体に価値があると言えるだろうか。
このとき、「だれにとっての価値か」を考えなければならない。客観的価値というものがあるのかどうかというのは1つの重要な哲学的問題ではあるが、そのようなものがあるとしても、すべての価値が客観的ではないだろう。
たとえば、太郎が、自分を可愛がってくれていたがいまは亡くなっている祖母から、その生前に時計をもらっていたとしよう。すると、この時計そのものはありふれたものであっても、太郎にとっては最終的価値をもつものだと言える。しかし、太郎や太郎の祖母にまったく関係のない人々にとっても価値をもつとは言えないだろう。そして、これが重要であるが、その関係のない人々も、その時計が太郎にとって価値があること自体は理解できるだろう。
同様に、個々人の人生も、かりに客観的には価値がなかったとしても、関係するだれかにとっては価値(最終的価値)があるかもしれない。この点はまたのちに議論しよう。
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